Pompei2000年前の都市

-その2-


昔の街は城壁で囲まれています。(Storia「方言」参照

ポンペイもナポリ湾の一角から、ヴェスビオ山にかけての小高い丘に位置していましたが、
周囲を城壁で囲み守りを固めています。
ですから城壁にいくつかの門を築き、門は街への出入り口になっています。

繁栄していた頃は7つの門が設けられていましたが、今使用されているのは主に3つです。
中でもPorta Marina(海の門)には現在、遺跡への入場券を売る窓口があるので、
90%以上の観光客はこの門からポンペイの街へと入っていくことになります。

ポルタ・マリーナは両脇に大きな建造物があるので、門のところがトンネルのようになっており、
あたかも2000年前の街へのタイムトンネルをくぐかのような気がしてきます。
すでにその門をくぐる時にはかつての石畳を歩いているのです。
玄武岩を荒削りした大粒の石畳はどうかすると今のローマのサン・ピエトリーニより歩きやすいくらいです。

さて、ポルタ・マリーナには二つのアーチがあり、車道と歩道とに分かれていたことが伺えます。
大きいアーチは荷車が通る道。小さいほうは歩行者用です。
ここはこの街でも一番勾配のきついところですから、重い荷を運ぶ荷車はかなり
大変な思いをしたことでしょう。
でも、名前からもわかるように、ここと隣のエルコラーノの門が海に一番近いところに位置します。
ですから、海から荷揚げされた多くの品々がここを通ったことでしょう。

どこの町も夜は大木戸を閉めて休んだので、この門にはその木戸を受け止めた敷居があります。
そのしきいも荷車の車輪の幅に刻みがあり、通行しやすくなっていますし、
その刻みはまた、雨が降ったときや普段の生活汚水の流れにも都合よかったわけです。

当時すでに下水溝もありましたがこの街では完璧ではなく、多くの生活汚水は道路に流されていました。
そこで、道路をよく注意してみると真ん中が盛り上がり、両脇が低くなっています。
つまりごく浅い溝が道路の両脇に設けられているような状態です。

でも、雨が降って増水すると真ん中のほうも汚水で汚れるので、
歩行者が歩道から歩道へ横断するときに、足を汚さずに渡れるように、
道路の真ん中に大きな石が置かれ、まるで横断歩道のように使われていたのです。
当然その石も荷車の車輪の幅に飛び飛びに置かれているのです。

また、石といえば街の中心広場(Foro=フォーロ)はすでに歩行者天国だったので、
荷車で運ばれてきた荷がその広場を横切るときには広場のそばに人足の待合所があり、
彼らが荷を担いで広場を横切ったのです。

人々が気兼ねなく散策したり、立ち止まっておしゃべりに花を咲かせることが出来るように
あるいは選挙演説などが行われて多くの人が集まったりするので、
中心広場はすでに歩行者天国だったのです。
ですから広部へ通じる道には広場の直前に車止めが設けられています。

もう少し道路関係について話しておくとすれば、
歩道はまた、家の壁をいつもぬれた状態の道路から守る役目をも果たしていたのです。
あるいはさらに、繁栄していたこの街は昼夜を問わずたくさんの荷車がひっきりなしに通っていました。
そういうたくさんの荷車の車軸が家の壁を削り取らないようにという工夫でもあったようです。

昼間は貴族を乗せた輿や商業用の荷車が、
夜間は汚物を捨てに行く荷車がひっきりなしに通っていたということで、
そういう交通量が多すぎて騒音がうるさいという落書きが見つかっています。

最後に落書きで思い出しましたが、こちらにはギリシャ時代から文字が存在しています。
ギリシャにすでに歴史記述家や、詩人達がいたことは語存知のとおりです。
つまり、当時の生活ぶりがなぜこんなに詳しくわかるかといえば、
人はすでにいろんなことをパピルスや黒板や壁の落書きなどに書き残しておいてくれたからなのです。

 

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