タイトル

落第


小学校から中学1年までは常にクラスのトップを争っていたのに

中学2年で、教授陣のほとんどが入れ替わり、かなりの戸惑いと共に、

学業への関心が薄れて行ったようだ。

 

もしくは、ちょうど中学1年の秋に今の家に引っ越し、いささか孤立した環境に加え

母親が、それまでのように常に後ろにいるのではなく、

庭仕事やインターネットにかまけて彼に背を向けることが多くなったのも一因か。

 

とにかく来期、息子は高校3年生に進級できないことになった。

最後まで一縷の望みをかけていたけれど、

今日6月16日土曜日、正式に落第の発表があった。

 

落第と聞くとわれわれ日本人はかなりのショックだが、

今回もクラスの1/4が落とされたことから見ても分かるように、

これが人生の終わりではもちろんない。(笑)

 

最後の懇談会で数学の教授と話した時に危ないといわれたが、

その数学の点数が5.5だった。

つまり10段階で、5.5なら落とされてしまうわけだ。

そのほかの科目はもう少しましだったようなので、もしかしたら7ぐらいが境界線なのかもしれない。

だとしたらかなり厳しい。

 

こちらでは未だに大学も、入試がない状態で、

先日うちへ日本語の補習にきていた子の話では、

生徒の数が多すぎて教室内の通路はもちろん、外の廊下にまで生徒があふれていたという。

こんなに多くの志願者がいても入試で落とすことがないというのは不思議な気がする。

その後、最初の試験で何割かの子は去っていったというけれど、

まさかそれを見越してのことではあるまい。

ただ、望む子たちには門が開放されている代わりに、

責務を果たさない子はどんどん切り落とされてしまうということだろう。

 

落第がほぼ確定した時に恥を知れといった母親に対して

「恥ずかしいとは思っていない」と答えた息子。

そうなのかもしれない。

ここイタリアでは日本のように恥じなことではないのかもしれない。

それを母親の見栄でどうしようもなく恥ずかしいことだと思い込ませることは間違っているかもしれない。

 

自分が義務を果たさなかった結末としての落第を素直に受け止めてはいるものの、

それを恥だとは思っていない息子がうらやましい気がする。

落第ということで、全てを悲観視して投げやりになるどころか

これもひとつの経験として、新たな学期に向けて前向きの姿勢でいる息子を

半ば誇らしく思うのは親ばかも桁外れの私。

 

中学高校を通じて息子の友達にも落第生がいたけれど、

彼らは皆いい子だった。

けっして乱暴だったり、阿呆な子ではなかった。

街で私を見かけると「陽介のマンマ!」と駆け寄ってくる可愛い子達だった。

家に遊びに来ても、礼儀正しい子達だった。

 

今、息子はいくつかの選択を迫られている。

数学が苦手なのであれば文型の高校に編入するというのがひとつ。

ただし、そのためには彼らが1年かけて習ったギリシャ語を

この夏休み2ヶ月の間に習得しなければならない。

ラテン語も、今までの学校で習った分では不十分なので補習をしなければならない。

 

もしくは今までの学校で1年年下

(実際には息子はあと4日後に生まれていればその子達と同じクラスになっていたわけだけれど・笑)

の子たちととこれまでのように勉強する。

 

そして最後の選択は音楽学校へ行くこと。

ところが今現在、音楽学校として公認されている高校はミラノにひとつしかない。

うちから通えるところ(車を飛ばして40分は優にかかるけれど)にある音楽専門学校が

今、高校として公認されるかどうか教義中だとのこと。

もしもそれが可決されれば、息子には願ってもない学校ということになるのだけれど。

 

とにかく今の時点で少しあせってしまっている私としては、大学へ入れる資格を得るために

どこかの高校を卒業して欲しいとと思い、どこでもいいから卒業して欲しいという私に対して

父親はといえば、「いやいや勉強しても身につかない。

卒業しても、何も自分の身についていない学業など何の意味もない。」と言い放つ。

それは正論だと私も思う。

ただ、学歴や家柄よりも個人を重んじるイタリアの庶民の生活が

未だ私のものになっていないかもしれない。

 

                   Keiko


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