Pompei2000年前の都市
-その3-
前回 (といってもすでに2ヶ月も前になりますが)
ポンペイの道路のことを話した時にひとついい忘れたことがあります。
石畳に覆われていたポンペイですが、紀元62年に大地震にあっており、
そのとき街の大半の建物が倒壊し、道路もずたずたになりました。
すぐに街の再建が始まりましたが、道路に再度石畳を敷く時に、
完璧にもとのように石を敷きなおすことは不可能です。
そこで、もともとの石にあったわだちが再建後には不規則な線になって残っているところがあります。
だから、今見学するには歩きにくいところがありますが、昔はもっときれいな舗装道路だったとお考えください。
さぁ今回は建物の内部をご紹介しましょう。
地震のあとでも先ず再建が進んだのは個人の家々でした。
ここでも先ず当時の一般の家を想像していただきましょう。
当時すでに城壁の内部には家がぎっしりと立ち並んでいました。
今のイタリアの都会でも同じですが、建物は道路際ぎりぎりに建っています。
少し中心から離れたことろには豪農の1戸建てや貴族の別荘などもありましたが、
街の中の庶民の家は長屋のようにつながっているところが多いです。
特に表通りに面したところはほとんどが商店で、2階が住まいという状況でした。
今と同じですね。商店はまたの機会に話すとして・・・
玄関を入るとアトリウムと呼ばれる空間があります。
ここは屋内への明り取りと、雨水を取り込むために天井がありません。
床の真ん中に大きな水盤があり雨水が地下の貯水槽へと流れるようになっています。
その周りにはいくつかの部屋があり、(もちろん屋根がついています。)
少し奥まったところにはその家の主人の書斎が設けられている家が多いです。
というのも、その頃ローマの市民権を持つ人々の主な仕事は
同じ階級の人々との交際・冠婚葬祭や仕事上の
そして庇護民というのでしょうか少し力の弱い人々の陳情を聞いて
経済的なことを中心に援助してあげるということだったようです。
午前中は、朝早くから家の外に並んだ人々の陳情を聞くために、
主人は大きな金庫のある書斎にこもっていたということです。
さらに奥にすすむと、豪邸ではもうひとつ中庭のようなところがあり、
その周りを回廊が取り巻いていて、雨の日でも庭の植物を見ながら散歩が出来、
もちろん客人たちがくれば、手入れされた庭を眺めながらおしゃべりに花を咲かせたことでしょう。
中庭には噴水を設けているところも多く、水道管が庭の周りを走っていますが、
つなぎ目に用いられている6角形のボルトやコックなども今と全く同じ形をしています。
ただ、水道管に柔らかくて扱いやすい鉛を多用したために健康に障害が出たという話も聞いています。
さて、気になる食堂ですが、富裕階級には2つ以上の食堂があったようです。
季節によって夏はより涼しい場所に、冬はその反対のところに、
また客人との宴会用と家族で過ごす場所という風に複数の食堂がありました。
もちろん使用人たちの食堂は台所に近いところ、あるいは台所内です。
特に客人たちとの宴会用の食堂には特色があって、
部屋の中にコの字型のベッドが並び、大型のベッドにそれぞれ大人が3人ずつ位寝そべって、
真ん中にあるテーブルに運ばれてくるご馳走を手でつまんで食べていました。
今と違い娯楽が少なかったですから、おいしいものを食べることは何よりもの楽しみ。
そこで、おなかがいっぱいになってもさらに食べ続けました。
宴会は半日以上にも及んだそうです。
でも、人間のおなかにも限界がありますよね。
おなかがはちきれそうになったらどうするか?
早い話が吐き出して、また食べ続けたそうです。
吐き出すためにのどに手を突っ込むとか、羽のようなものを使ってのどを刺激するとか
とにかく、そうしておなかに空間を作っては食べ続けたそうで、
当然ながらその場で吐くのですから食堂が一変して汚いことになってしまいます。
そこで、食堂の床は少し奥を高くこしらえて、そういうことをなさった後は
使用人たちが水をどんどん流していち早く掃除をしたということです。
また、大人の男女が入り混じりお互い隣の人に寄りかかるようにして食べたり飲んだりしているので、
エチケットがうるさかったそうです。 (吐くのはエチケット違反じゃないのか!)
絶対にみだらな話題や行いはしてはいけなかったと聞いています。
今日の映画を見るとあの時代は相当に風紀が乱れて描かれていますが、どちらが本当なのでしょうか?
繁栄を支えたのはやはり指導階級の市民の律儀さがあってのことだと思うので、
私は前者を支持しますが・・・
食堂のほかにサウナ室や水洗トイレもあったということですがその辺はまたこの次にさせてください。
Keiko