イタリア語は、その名も 「ローマ字」 で書き表される。
そこでわれわれ日本人には読みやすく発音しやすい言葉である。 ちょっと気をつけなければならないのは、カ行を K ではなく C
でわらわすことと、 ほかにも若干変則的な発音があるけれど、 Segni・・古くはSignia、レピーニ山脈の真珠と呼ばれた町。 発祥はローマよりさらに2〜3世紀古い。 ローマの南約60kmに位置し、680mの高さはよそ者を寄せつけず、 もともとは古代イタリア人といわれるVolsci(ボルスキ族)が住んでいた。 それを、王政ローマ時代の最後の王、タルクイニオ・イル・スペルボが征服した。
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とにかくローマが共和制になって植民地の第1号に指定されたということからも、 当時このあたりでは少なくともローマ人の注目を惹く存在であったということだろう。 ついでながら、当時のローマの植民地になった町にはS・P・Q・? SはSenato元老院を意味し、PはPopulus市民を表し、Queは〜のという言葉 。 そして最後の文字がそれぞれの街の名にあたる。 ローマならSPQR,になりSegniはSPQSになるのである。 ローマ人の最も気に入ったのは、おそらくl’opus
segninum と呼ばれる水道の |
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この工法はいわゆる漆喰のことなのだが当時としては新しい工法だったようだ。
街は周囲5qの古代の城壁で囲われている。 この城壁に使われているのはとてつもなく大きな石で、 ということで、こういう巨石を使った城壁は今も その城壁にいくつかの門があり、今や街の名所?になっている。
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場所によってはこういう古い町が置き去りにされているところもあるが、 Segniのふもとには20世紀初め大規模な工場が建設された。 周囲の石灰岩質の山から石灰岩を切り出し、セメントを作る工場。 戦時中は武器の製造をしていた工場。 今は、セメントと共に、国鉄の車両を作っている工場である。 こうして働く場所ができたためにふもとの町は一気に人口が増えたし、 近年には隣の県に一大工場地帯が出来上がり、それこそ働く場所には事欠かない。 ローマへだって汽車でも車でも渋滞がなければ1時間の距離なので、ローマへ通勤する人もたくさんいる。 さて、この街とはじめてであったのは1988年の春。 ここはわたしの相棒Paoloの母親のふるさとなのだ。 そこで、まじめなイタリア人なら?親戚中へ新しいガールフレンドを連れて行く。 ちょうど復活祭に近い頃だったので、たくさんの卵形をしたチョコレートや 見るからに明るい元気のよい叔母、(姑の一番下の妹)と、 日本人など見たこともない4人の子供達の興味津々の顔が彼らの後ろに続いていた。 みんないい子だ。 長男は当時すでに高校生だったと思う。 その4歳下には双子の男の子達。Paoloは未だに見分けが付かないといっていた。 さらにその下には長いきれいなウエーブの髪を持つかわいい女の子。 みんなきちんと挨拶をし、私たちが席を立つまで、話に聞き入り時には質問をした。 いや、双子はわれわれが持っていったラジコンの車で廊下で遊んでいたっけ。 その彼らもそれぞれが相棒を見つけて独立してしまったのだから、こっちも年をとるわけだ。 日本であまり親戚にいい印象がなかったわたしには新鮮な驚きだった。 おばと甥の仲がこんなにも良いなんて・・・ その甥っ子が連れてきた人なのだからとこんなにもざっくばらんに温かく迎えてくれるなんて・・・ おばたちはふもとの町に住んでいたので、そのあとふたりだけでSegniへと上っていった。 いいお天気で、山の上の町はとてもきれいでのどかだった。 市役所前の広場から向かい側に見える丘のうえの家を指差しPaoloがいった。 「いいでしょあのお家、僕ももう少し年をとったらこの街にきて住もうかと思うんだ。」 それから3年目には二人してこの町の住人になったのだった。
この街の名物はなんと言っても栗。 山は全部栗畑といってもいいくらい。 例年10月の最後の日曜日に栗祭りが繰り広げられ、近隣からの人出でにぎわう。 中世の趣の残る旧市街地に、栗で作ったお菓子やジャムを売るお店ができたり、 もうすぐやってくる寒さを前に人々は街をそぞろ歩き、おしゃべりに花を咲かせる。 Keiko
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