タイトル史的な話
 

  カタコンベ

 
久しぶりに歴史的なお話しを。

「カタコンベ」 ご存知の方も多いかと思いますが、大昔のキリスト教徒のお墓です。

言葉そのものは、ラテン語のくぼ地という意味の言葉カタクンバからきているそうです。

キリスト教がローマへもたらされた頃、まだローマは多神教の時代でした。

ローマ人は宗教に寛大であるばかりか、とても優れた政治家で、宗教をうまく政治に利用しました。

ローマがその領土を最大に広げたのはトライアヌス帝の時代ですが、

なんと東はカスピ海、西はヨーロッパ大陸の終わり、今のポルトガルですね。

北はイギリス、南は今のエジプト・モロッコのあたりの北アフリカ。

そういう広大な範囲にはさまざまな人種が自分達の信じる神々と共に暮らしていました。

一般に、人間はそもそも精神的な安定を求めて宗教に頼るのですから、

自分が普段から信仰している神々がそばにいれば落ち着いていることができました。

そこで、ローマ人は征服した土地の人々と共に、彼らの信仰する神々をも一緒にローマへ連れてきたのです。

連れてこられた人たちの身分は奴隷ですが、

一生懸命働けば、やがて主人から自由を買い戻し、

苗字を与えられてローマの市民権を得ることができたのです。

少し話がそれますが、われわれは奴隷という言葉を聴くと、すぐにガレー船をこいでいたり、

鉱山での厳しい仕事にこき使われているところを想像しますが、

街へつれてこられた奴隷達の生活は、さほど厳しいものではありませんでした。

もちろん主人の性格にもよるでしょうが、いわゆる家事全般をこなしたりするだけでなく、

能力に応じて秘書や、子供の教育という仕事も任せられていました。

衣服もその仕事にふさわしいものを与えられていたし、

食事も家族と同じものを食べていたようです。

戦争で負けた彼らですが、元の国でそれぞれ政治をつかさどっていたり、

教育者であったり、医師だったりした人たちは、身分こそ自由を束縛された奴隷ですが、

それぞれの持つ能力に応じた仕事を与えられていたのです。

自由の束縛に関しても、鎖につながれているというようなものではなく、

旅行や、結婚や、仕事先を変えるなどということを禁止されていた、

いえ、禁止ではなくそういうときには主人の了承を必要としたといった方が正確かと思います。

とにかくそういうことで、ローマ帝国内の街にはおびただしい神社仏閣が立ち並んでいたとお考えください。

キリスト教はそれならなぜ認めてもらえなかったというと、歴代のローマ皇帝を神格化していたのに、

彼らは彼らの神のみを、そしてその子のキリストのみを信じる、

ほかを一切排斥するという点がローマ人を怒らせてしまったのです。

詰まりローマへの反逆と解釈されたのですね。

キリストの裁判を担当したピラトは、実際どうにかしてキリストを救おうと苦心したようですが、

覚悟を決めてしまっていたキリストは言葉を翻すことがなかったわけです。

(このあたり、端的に話しをしていますので、キリスト教に詳しい方々には

言葉が足りないかもしれませんが、お許しください。)

そしてまた、ほかの宗教を信ずる人たちにはなかった集団性も

ローマ人に危惧を抱かせる要因になったと思います。

ほかの宗教はお祭りはあってもミサのような集会がなかったようです。

 

そういう非公認の宗教を信じる人が亡くなったときに、

(やっと本題に戻りました。)

公にお墓へ葬ることができなかった。

そこで、ローマの城壁を出たばかりの所に

地下壕を彫ってその地下通路の両脇に

たくさんの穴を掘り、遺体を収容したのです。

そういう地下通路は必要に応じて無計画に

掘りすすめられましたから、

ところによっては長さが20kmをゆうにこすような

のもあります。。

しかも、地下2階3階というように掘り進んでいったのです。

 

その頃にはキリスト教がすでに貴族階級にも信仰されるようになっていて、

そういう人たちのお墓には大理石に彫刻を掘り込んだ墓石もみられます。

また、初期の教皇様方はみな殉教なさったのですが、そういう方々のお墓もやはり地下に作られました。

また、葬儀を初めミサをすることができるように地下に集会所を設けているところが少なくありません。

その後、313年にコスタンティーノ帝により、キリスト教が公認されると一気にキリスト教信者が力を持ち、

あちこちに教会を立て始めます。

自分達の仲間を殺害したローマ人の造った建造物を採石場と化し、

そこからきれいな大理石やトラヴェルティーノを剥ぎ取って、どんどん教会を作りました。

そして教会付属の墓地も作っていったのです。

こうして必要性がなくなったカタコンベと呼ばれる地下墓地はその存在すら忘れ去られていくのです。

一気に16世紀、宗教の違いにこだわらないで、自分達の祖先のことを研究しようという

教皇たちの出現によって、あちこちのローマ時代の遺跡の調査が始まって

また、カタコンベも日の目を見ることになったのです。

中には、初期キリスト教徒の残した貴重なフレスコ画や、信者の刻んだ文字なども若干残っています。

下にいくつか代表的なものを上げておきました。

これらは「LE CARACOMBE」という本を書いたAldo Pascolini氏の手によるものです。(上の絵も)

最初の椰子の葉と最後のMPは、殉教者を意味します。殉教者=Martire

はとは、最も古いシンボルのひとつで、キリストの慰めと平和を意味します。

魚はギリシャ語で、イエス・キリスト・神の子・救世者という言葉の頭文字をとったもので、

その頭文字をつなげると魚とい言う言葉になったのです。

キリストという名さえ口にできなかった時代の人々はこのようにして崇めたのです。

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