いったいどこから話し始めたらよいものか・・・
今から2000年以上前に石で舗装された車道と歩道とに分離された道路が縦横に走り、
2階建ての家屋が建ち並び、表通りに面したところは商店街で、夜間も照明で照らされていた。
市民の集まる広場は白い大理石が敷き詰められ、周囲をトラヴェルティーノという
準大理石で出来た大きな柱廊が取り囲んでいた。
そんな広場のあちこちで、市民達は政治やスポーツや娼婦の噂話に花を咲かせていた。
富裕階級の家にはたくさんの雇い人や奴隷達が仕え、
教養のある奴隷は立派な衣装を身に着けて、その家の子供の家庭教師をしたり、
主人の秘書役を務めていた。
家人達は、隅々まで暖房の効いた家で、贅沢な料理を食べ、サウナ風呂を楽しんでいた。
この街の名は、POMPEI ポンペイ
おそらくその頃、イタリア半島に存在した多くの街がそういう状況だった。
ポンペイは立地条件が良く、商業都市として繁栄していたということもあるが、
同じくらいの規模を誇る街はほかにもたくさんあったはずだ。
ならばどうしてこの街ポンペイだけがこうも世界的に有名なのか。
それは、偶然が重なったとしか言いようがない。
先ず、ポンペイは紀元後79年8月24日のお昼過ぎ、
すぐ後ろにそびえるヴェスビオ山の噴火時の噴出物に埋もれてしまった。
ほかにも災害にあった街はあるだろうが、こうもすっかり姿を隠してしまっては
やがて人々から忘れ去られてしまったのだ。
だからこそ、キリスト教徒たちの略奪から逃れることが出来た。
キリスト教徒と略奪という言葉は似ても似つかない間柄のようだが
キリスト教が公認されるまでの間に信者はローマ皇帝たちの指示でたくさん殉教した。
だからキリスト教徒にとって、キリスト教を公認したコスタンティーノ(コンスタンティヌス)
以前のローマの皇帝たちは自分たちの祖先や仲間を殺害した憎い相手。
その皇帝たちの下に建設された建造物には、憎悪の気持ちはあっても尊重する気持ちは微塵もない。
そこで、自分たちの教会や家屋の建設に、繁栄していたローマ時代の素晴らしい建築物を壊しては
その材料を用いたのだった。
実際問題、経済的にも技術的にもそうでもしなければ新しい建造物などできようもなかった。
なんとそういう蛮行が1500年代まで堂々と行われていたのだ。
(市民レベルでは1800年代まで行われていたし、今も遺跡の石をはがすばか者がいる。)
もしもそういうことがなかったら、ローマはもとよりイタリアの各都市は今も白大理石の
豪勢な建造物に囲まれていたことになる。
とにかく、地上でそういう蛮行が行われていた間、ポンペイは地下でひっそりとなりを潜めていたのである。
街は時代に応じて少しずつその姿を変えていく。
ところがポンペイは手付かずだったので、主に紀元前2世紀に立てられた建造物が
街の様子が、そのまま残ることになったのだ。
約1600年の後、ある貴族が別荘を建てようとそのあたりを掘り返したところ古いものが出てきた。
1748年からは当時のナポリ王カルロ3世の手によって発掘が始まった。
ただ、発掘とは名ばかりの
貴重なギリシャ時代の金銀細工や大理石像などを掘り返す盗掘にすぎなかった。
ようやく発掘というにふさわしい作業が始まったのは、1860年のこと。
ジュゼッペ・フィオレッリ博士の手によって次第に街の全容が明らかになっていく。
博士は、地下の空洞に石膏を流し込んであるがままの姿を取り出すことに成功した。
とり出された石膏は、おびただしい数のつぼや食器のほかに、
なんと生き埋めになった人の姿もあった。
人が生き埋めになり、びっしりと火山灰が積もり、雨が降り・・・
地下に人の鋳型が出来ていたのだった。
子をかばう親、寄り添う夫婦、逃げようともがく飼い犬・・・
まるで写真のように噴火時の様子が3Dで地下から現れた。
建造物も火山灰できっちりと埋め尽くされていたおかげで、
2000年近い間に何度か襲った地震の被害も免れている。
火山灰の重みで屋根のほとんどは落ちてはいるが、
あるいは4mから6mの堆積物の外に飛び出していた部分は破損しているけれど、
街の規模、通りの様子、そして1件1件の家々、公共的な建造物、
コロッセオを一回り小さくした競技場、小さな音楽堂、ギリシャ式の半円の劇場などが
当時の生活を忍ばせてくれている。
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