とっておきのお友達
 

久しぶりの配信なので、今日はとっておきのお友達の話をしましょう。

この話を読まれたらイタリア人に対する印象が少なからず変わるのではないかと思います。

デリケートな部分があるので今日はすべて仮名を使わせていただきます。

そう、日本人の名前を使うことにしましょう。

 

雅夫さんは、利発な奥さんと中のいい兄弟たちに囲まれて、
仕事も観光バスを何台も所有する小さな旅行社の経営を順調にこなしていました。

ところが奥さんが長女を生んだときに先ず大きな課題を課せられました。

生まれたお嬢さんは、脳に少しの障害があり、詳しくは判りませんが、
視神経に近いところだったので、医師から「脳を取るか視力を取るか」と言う決断を迫られました。

つまり、お嬢さんは、正常な脳を持つ盲目の女性として生きるか、
少し知恵遅れの、でも健康上は異常のない女性として生きるかどちらかしかないということなのです。

こんな悲しい決断をせまられた雅夫さん。
彼は後者を選びました。

きっと、少しの知恵遅れなら家族の介添えがあれば生きていける、
そのほうがこの世に存在する美しいものを見ずに生きるより娘さんは幸せなのではないかと判断したのでした。

家族がまとまって暮らすイタリアではそれはあまり難しいことではないと私も思います。

実際に大きくなられた娘さんに出会って、その明るさに父親の選択が間違っていなかったと思いました。

 

ただ、雅夫さんへの試練はそれだけではなかったのです。

娘さんを育てるのに無二な協力者、奥さんががんに侵されてしまったのです。

当時のイタリアではそのがんの治療は難しい、フランスにいい病院があると医師から聴かされた
雅夫さんは、その日のうちにフランスに飛び、入院手続きを終えました。

幸い手術はうまくいったのですが、15年間何事もなく過ぎれば安心できるという医師の言葉に
その日以来、大好きだったワインをはじめ一切のアルコール類を断って
奥さんの回復を神に祈りました。

雅夫さんとは仕事で知り合いました。
自由に身動きが取れるように旅行会社は閉めて個人で観光ガイドとして仕事をしていました。

とっても穏やかな人で、どうかすると明るすぎたり女性に優しすぎるナポリのガイドさんが多い中で、
ひときわインテリジェンスがきらめく人でした。

冗談を言いながら、ナポリの歴史やポンペイの遺跡のことを詳しく教えてくれました。
英語のほかにドイツ語も巧みに操り、日本語も一度覚えたフレーズは決して忘れない人でした。

当然、家族のそういう出来事は私などには話してくれませんでした。

ある日、彼の弟さんと一緒に仕事をしたときのこと。昼食時に私をパーティーに誘ってくれたのです。

どういうパーティーかというと、ナポリ湾に大きな船を浮かべて船上で夕食を取り、
天候が許せばナポリ湾を一周するというすばらしい企画に驚き、
どうしてそんなたいそうなパーティーをするのかと聞いたところ、ことのいきさつを話してくれたのです。

つまり、その身を削られるような思いの15年が過ぎようとしているのです。

1も2もなく快諾しましたが、レストランの中で、流れる涙を抑えることはできませんでした。

こんなすばらしい話を聞いたことはありません。

そして、本当にわがことのようにうれしかったのです。

ローマからは、そして日本人で招待されたのは私だけでした。
それもまた私を満ち足りた気分にしてくれました。

 

大きな船の上にテーブルがたくさん並び、着飾ったイタリア人が大勢集まり、
彼の親交の広さ、人徳を感じさせられるものでした。

お嬢さんも奥さんも元気に顔を揃え、二人の男兄弟とその家族たち、
いつも仕事を一緒にする仲間たちに囲まれ、ついに雅夫さんは乾杯の後ワインを飲み干しました。

 

それまで気がつかなかったのです。
いつも昼食時に彼は新聞を読みながら暇をつぶしていました。

われわれは彼のそばでワインやリモンチェッロに舌鼓を打っていたのです。

たまに、どうして雅夫さんは食べないの?と聞く人がいると
「奥さんのおいしい手料理が食べたいからよ。」と知ったかぶりで答えていた私。

もちろんそれも正解でしょうが、知らない人がワインを注いだりするのを避けるために、
そして、もしそういうことが起きたときに、飲まなくなった理由を、
あるいはつまらぬうそをいいたくないために、一切何も口にしないのでした。

 

すばらしいパーティーでした。
同僚のガイドさんの中にプロとして十分通用するくらい歌の上手な人がいて、
もう一人、ギターの伴奏が巧みな人とたくさんのナポリ民謡を歌ってくれました。

ナポリ民謡も内容がわかるとかなしい歌が結構多いのです。

その二人が「知床旅情」を歌ったとき、2番は私が歌わされました。
「知床旅情」はギリシャでも聞いたことがあります。世界的に有名な歌のようです。


初めてお会いする奥さんは、とっても元気そうで、しかもお年を伺っても信じられないくらいお若く
はつらつとした印象でした。

私は大切な友人の奥様に、母の形見の羽織を贈りました。
母が注文して、出来上がったものに袖を通すことなく逝ってしまったのです。

私にも着るチャンスはありませんでした。
大体母は小柄だったので、私には少し小さすぎたのです。
羽織の紐だけをつけて、仕立て直すことなくしまってありました。

雅夫さんの奥さんが果たしてどういう風にあの羽織を扱っておられるかは知りません。
でも、母の形見だといったときに本当に大切なものを受け取るように
押し頂いてくださったことだけで、私には十分です。

 

仕事をやめてすでに7年、雅夫さんにあわなくなって7年、
いまだにお誕生日にはおめでとうの電話を入れます。

                 Keiko

 

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